2021年R-1グランプリに対するTwitter上の感情を分析してみた
つい先日行われた2021年R-1グランプリ。
テレビを付けたら偶然やっていたので少し観ていたが、審査員の点数も一気にバンッという形で出ていて、どうもM-1グランプリのような緊張感がない。
というので、あまり長居せず、元々見る見る予定だった録画を観ていた。
後々Yahoo!ニュースを見てみると、どうも構成にかなり不手際があったようで、言ってしまえば「グダグダ」だったようだ。
ただ、所詮は酷評でお馴染みのヤフコメ。
もっと純粋にTwitter上での反応を見てみよう、ということで、「#R1グランプリ」とともに呟かれたツイートを分析し、見ている人たちが純粋にどのように番組を見ていたのかを分析してみました。
対象/やり方
結果
ツイート数のトレンド
番組開始の19時のタイミングで急にツイート数が増加し、番組終盤、Finalが終わったあたりで最もピークを迎え、番組終了の21時を過ぎてからはツイート数が落ち込んでいる。
まあ、ハッシュタグ付きのツイートのみ見ている以上、特に驚きはない。
感情のトレンド(oseti)
まずosetiを使用して、ポジティブ/ネガティブのトレンドを見てみたい。
ツイート全体黒の縦補助線は、各ネタ終了後、R-1公式Twitterアカウント(@R1GRANDPRIX)でTwitter投票をしていたが、そのタイミングである。
ちなみにファーストステージの結果は以下の様な形である。(参考)
順位 | 芸人 | 得点 | 陣内 | 友近 | ホリ | 古坂 | 野田 | 川島 | ザコシ | 視聴者(Twitter) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | ZAZY | 669 | 93 | 95 | 95 | 99 | 95 | 93 | 94 | 5 |
2 | ゆりやんレトリィバァ | 666 | 95 | 94 | 95 | 97 | 95 | 93 | 92 | 5 |
3 | かが屋賀屋 | 655 | 90 | 93 | 96 | 95 | 94 | 92 | 90 | 5 |
4 | 高田ぽる子 | 652 | 93 | 89 | 95 | 92 | 92 | 93 | 93 | 5 |
5 | 森本サイダー | 650 | 91 | 91 | 96 | 96 | 92 | 90 | 93 | 1 |
5 | kento fukaya | 650 | 92 | 90 | 94 | 93 | 92 | 92 | 92 | 5 |
7 | 土屋 | 647 | 88 | 96 | 94 | 95 | 93 | 90 | 90 | 1 |
8 | 吉住 | 646 | 90 | 95 | 94 | 94 | 91 | 89 | 88 | 5 |
9 | マツモトクラブ | 637 | 89 | 93 | 93 | 94 | 88 | 89 | 88 | 3 |
10 | 寺田寛明 | 633 | 87 | 89 | 93 | 93 | 89 | 88 | 89 | 5 |
Twitter投票の仕組みは、1点(いいね!)、3点(おもしろい!)、5点(爆笑!)から最も票を集めた点数が入るというものだった。
こうして比較すると、Twitter投票で1点だった土屋のタイミングで感情の落ち込みがある一方で、相対的には低い3点だったマツモトクラブのネタ終了のタイミングで最も感情価が高い(ポジティブ)になっているのが面白い。
お笑い賞レースでは大抵一番最初が基準となり不利と言われるが、今回の視聴者投票に関してもその傾向があったのかもしれない。
感情のトレンド(pymlask)
次にポジティブ/ネガティブより詳細に個々の感情のトレンドをpymlaskを使ってみてみたい。
先ほどと同じ様な形で見てみると、「喜」の感情がピークを迎えているのは、Finalステージのゆりやんレトリィバァのネタ終了後である。優勝者でちゃんと盛り上がりが見えるのは面白い。
加えて、osetiでの感情分析と似て、Twitter投票で1点だった土屋のタイミングで「怒」のネガティブな感情が高まっている。が、ちゃんと「喜」の感情も高まっているので、まあ評価が二分されてしまったのかもしれない。
また、「好」という感情はマツモトクラブのネタ終盤、ZAZYのネタ終了後、寺田寛明のネタ終盤で高まっている。ファーストステージトップのZAZYは勿論、ここでもやはりマツモトクラブが出てくるとともに、最下位ながらもTwitter投票では5点が入っている寺田寛明もネット上ではウケていた可能性がある。
次に割合の大きい「喜」「怒」「好」を除いた感情のトレンドを見てみたい。
まず目につくのはかが屋賀谷のネタ終盤における「哀」の感情だろう。ネットによると、どうやらネタが終わる前に音楽が鳴ってしまった、という情報をよく見るので、恐らくその影響だろう。
また、Finalステージ終了後にも「哀」の感情が高まっていることから、ゆりやんレトリィバァの優勝の裏でZAZYやかが屋賀谷の敗退を悲しむ声があったことがわかる。
また、「昂」の感情は、ネタ披露が始まる前にピークを迎え、それ以降は影を潜めているのも今回のR-1を皮肉を込めて示しているようで面白い。
まとめ
R-1に対するTwitter上の感情のトレンドを簡単に見てみたが、当然の様なものから意外性のあるものまで、色々と反応が出て面白かった。
今後も色々試していきたい。
忽然と現れしミャンマー・インド国境リクワダル/ゾクワタル(Rihkhawdar/Zokhawthar)ーミャンマー・インドの旅(10)
大学が始まってなかなか更新頻度をあげることができませんが、とりあえず地道にまとめていきます。今日はいよいよ今回の旅の一大目的であったミャンマー・インド国境越えです。
※マンダレーから国境を超えてインドのミゾラム州・アイゾールに到達するまでの記録は既に英語で下の記事にまとめましたが、日本語でより詳しく振り返っていきたいと思います。
↓前回の記事。チン州・テディム(Tedim)について書いています。
いよいよ情報がほぼ皆無の未開の地、Rihkhawdarへと出発する日となった。
ちなみにアルファベットで打っているのは正確な発音が最後まで分からず仕舞いだった為である。周りの人たちの声の記憶を辿ると、確かリクワダルだったような気がするので、表題にはそのように示したが、如何せん曖昧なので誰か確認を取ってほしいところではある。
出発前夜にCiimunai Guesthouseの若旦那に国境までのバンに乗りたいと尋ねたところ、「カレーミョからの中継地点としてテディムが存在する為、テディムから国境に向かう際はカレーミョからのバンが昼に到着することを待つ必要がある」とのこと。
「11時ごろにバンの乗り場に連れて行ってあげるのでそれまでに身支度しておいて」と言われたので、若干半信半疑ではあったが準備だけして宿の溜まり場で待っていると、きちんと10分前にヘルメットを被った彼が現れた。どうやら本当に送ってくれるようだ。テディム自体そこまで広くはないとは言え、これは本当にありがたい。(しかもタダ!)
バン乗り場はKBZから歩いていけるくらいの距離にあった。が、そこら辺の屋台小屋通りの一角にあり、自力で見つけ出すのはなかなか厳しそうなところにあった。
到着して少しすると屋台主らしき男性が現れた。ミャンマーにありがちな笑顔で出迎えてくれたのだが、結構歳を食っていて歯がほとんど抜け落ちていた。料金は9000チャットとのこと。カレーミョからテディムまでの7500チャットと合計すると16500チャットで、カレーミョから直接国境まで向かう場合よりも1500チャットほど高い設定ではあったものの、これくらいは全然許容範囲だった。というか、許容するしないの話ではなく、これしかないからこれに乗るしかないのだが。
乗り場に到着してしばらくは屋台主のおっちゃんとずっと待っていた。お客らしき人間はちょくちょく来るのだが、少し待った後にどこか行くみたいなのが繰り返された。これはもしかするとバンが来るまでそれなりに時間があるのかもしれないと勘付くと、ちょっと近くまで歩いてみることにした。勿論、英語もろくに通じない世界で変に置いてかれるのも困るのでせいぜい5、6分で戻ってこれるような場所までであるが。
テディムのいいところは山々の遠景がいくらでも楽しめるところだ。テディムは山の稜線沿いを切り開くように縦長に広がっているので、まちの両脇には崖が広がっている。僕はそこから見えるポツポツと存在するこじんまりとした集落や、旧日本軍が切り開いたというダーティな道を見てはノスタルジックな感傷に浸るモノマネを前日からしていた。基本的に観光要素というものが乏しいテディムでできる体験と言えばそれくらいなので仕方がないのである。
この時もそれなりに感傷のようなものに浸ってはいたが、しかしバンの到着を気にしないといけないというタスクのせいで、あまり放ったらかしな気分のままでいることができず、ややもどかしさもあった。
前日にカレーミョから到着したのが丁度12時20分くらいだったという事実をもとに、何となく12時くらいに戻ると、やはりバンは到着していなかったが、お客がそれなりに集っていたのでもうそろそろなのかと感じ、そこに居座ることとした。
そこから待つこと40分。漸くバンが到着した。前日に来た時よりも既に乗っている客が多く、結局一番後部座席の真ん中という席しか空いていなくて早くそこに乗れとの事だったので、窓から景色を眺めたい欲を抑えつつ急かされるままに乗車した。(前述の通りRihkhawdar行きを待つ乗客は勿論もっといたのだが、一番初めから待っていたからか、それとも外国人だからか、優先的に案内されている感があったので、そこで席を渋るような真似は流石にできなかった。 )
乗車して間も無くして、バンはテディムを出発した。テディム周辺は比較的舗装状況が良いのだが、それもせいぜい5分くらいの話であって、暫くすると昨日と同じような道へと様変わりした。
しかも、Rihkhawdarまでの道は昨日よりも明らかに急勾配な上りであった。明らかに重量オーバーなバンはせいぜい20km/h程度のスピードしか出すことができない。時より下ってくるトラックが時よりスピード全開で突っ走ってくるし、それに加えて乾季だったせいで砂埃が尋常じゃなく、ホワイトアウト状態になることもしばしばあり、本当に大丈夫なのかと不安になることも多々あった。
バンは途中に何度か停車した。そのうち一回は前を走っていたバンの故障に対する手助けみたいなものだった。マンダレー・カレーミョ道中でのバス故障でも同様だったのだが、やはりレッカーなどという概念など早々ないこの地域では車両の故障が起きたら相互に助け合うというのがほぼ当たり前なようだ。しかも凄いのは三人集えば文殊の知恵とばかりに、時間は掛かってもある程度まで修理ができてしまう点だ。日本ではたとえ人間が集まったとしても所詮野次馬でしかないだろう。この辺りの「生きていく知恵」というのにはつくづく関心させられる。
修理が終わったのちに再びバンは走り始める。しかし相変わらずのノロノロ運転である。そんなことが長らく続いているうちに、段々とあることが気になり始めた。
国境の閉鎖時間、である。
もう一つの国境チェックポイントであるTamu-Morehは4時に閉まるという情報は手に入れていて、実際上の故障修理中に英語が喋れる暇そうなチンの人に聞いてみたところ、やはりこちらも4時に閉まるとのことだった。彼曰くそれはあくまでオフィシャルな設定であって、別に遅れて行っても問題ないとのことだったが、残りのお金を考えると、運任せで物事を進めた結果Rihkhawdarで一泊する羽目になることだけはどうしても避けたかった。
バンは3:50くらいにバンターミナルと言うべき場所に着いた。先の英語ができる男性に尋ねたら、バイクタクシーで国境まで1000チャットとのこと。僕は急いでバンの上に積まれたバックパックを下ろしてもらって国境へと急いだ。
丁度4時にミャンマー側のイミグレに到着した。正直ダメ元感は否めなかったが、試しに真新しい水色の看板が飾ってある建物に入ってまだ開いているか聞いてみると、「Yes」と即答だった。何となく拍子抜けしたが、一安心である。外国人の数はやはり相当限られているのか、パスポートの読み込みに20回ほど失敗した挙句、読み込みを諦めて軽く情報を書き留めた後に返却されるなどというもたつきはあったが、何れにしても国境を超えられる分には問題ない。
国境はHarhva川を境に設定されている。
鉄橋を渡って対岸がインドである。
ついにインドに来てしまった。
この時は、勿論焦っていたこともあったが、具体的な感傷に浸るというよりも、夢中になって何も考えられないような、そんな感覚だった。直近に訪れたインド・パキスタン国境やカザフ・中国国境の時には興奮に近い高揚感だったが、今回はそれとは一味違った。
インド側のイミグレは国境ゲートを超えてすぐ右側にある。
手続きは手書きで行われた。ミャンマー側では機械化しようとして逆に手こずっていたが、こちらは最初からそれを諦めていて潔さすら感じた。
しかし、ここで一つ大きな過ちを犯してしまったことに気づいた。
お金である。
ミャンマーの通貨であるKyat(チャット)は「基本的に」国外持ち出し禁止である。それゆえ、ミャンマー側にはちょくちょく両替商がいたのだが、インド側に両替商は勿論、国境にある銀行の支店ですら両替ができなかった。しかし、これは想定内だった。
想定外だったのは、ATMが皆無だったことだ。テディムにいる間にインド国境近くに銀行があるからATMもあるだろうと勝手に勘ぐっていたのだが、どうやらATMは国境に一番近い大きな町であるチャンパイ(Champhai)まで行かないとないらしい。
冷静な状態だったらATMの想定が外れることを予想してミャンマー側で両替していたのだろうが、如何せん時間のことばかり考えていてそんなことなど気にする余裕が無かった。
しかし、何れにしても、一文無しになってしまった。さてどうしようか。
とりあえず、手続きを済ませたばかりのイミグレーションオフィスに駆け込んだ。とりあえず英語で事情を理解してくれそうな人がいるのはそこしかなかったからだ。
するとオフィスにいた30前後の人が、近くで座っていたおばちゃんに話しかけると、そのおばちゃんが代わりにミャンマー側に両替をしに行ってくれると言う。どれくらいルピーに両替したいのかだけ聞いた後に彼女は橋を超えてミャンマーに行ったかと思うと、ものの10分ほどでインドに戻ってきて両替してくれた。今冷静に考えてもそのシステムはよく分からないのだが、とりあえず感謝するしかない。
何れにしても、「使い切りようのない少額or緊急用であれば問題ない」と勝手に拡大解釈をして、数百円分のチャットをインド側に持ち込んでいたのが功を奏した。(USドルはこんな辺鄙な場所ではただの価値のありそうな紙に過ぎない。)
これが無かったら国境で足止めを食らっていたと思うと、まさしく九死に一生を得た気分だった。
次回からはいよいよインド側最初の町、ミゾラム州・チャンパイ(Champhai)での諸々についてまとめていきたいと思います。
ちなみにテディムからチャンパイまでの簡単な道のりについて、簡単な写真と動画で映像にまとめたので、もし良かったらご覧ください。(ブログの内容とさして代わり映えはありませんが、、、)
ミャンマー最果ての地、テディム(Tedim) ーミャンマー・インドの旅(9)
※マンダレーから国境を超えてインドのアイゾールに到達するまでの記録は既に英語で下の記事にまとめましたが、日本語でより詳しく振り返っていきたいと思います。
今回の記事は前回のブログの続きから書いてあるので、是非↓こちらから読んでいただけると助かります。
途中の絶景スポットを過ぎた辺りから、カレーミョまでの長距離バスとはまるで性質が異なる強烈な揺れや砂煙にも段々と慣れ始めた。
丁度太陽も眩しく照り始めた頃、7人を乗せた乗り合いバンはテディムの町に入った。乗客は自分の降りたい場所をバンの運転手に細かく指示しながら逐一降りていった。
一番初めはお祈り役だったおばちゃんで、そのすぐあとに、一番後ろの座席に座っていた20代ほどのカップル。どちらも活気のあまりない町の外れで降りていった。残ったのは絶景スポットでバレンタインを武器に煽ってきた、隣に座る三十路とおもわしきカップルと僕だけだった。
今回の移動で非常に好都合だったのは、煽りカップルが観光で来てくれていた事だ。どうやらこの辺りは高地なので、山や湖で癒されたい人が時々来るらしい。観光で来ているという事は特に頼まずともホテルへと向かうはずだ。しかも、彼らは英語ができるし、たとえフロントの人間が英語に疎くても、情報収集をする上では差し支えなさそうである、と勝手に期待していた。
その読みは的中した。バンはいかにもホテルらしい、三階建のコンクリート造の建物のそばに停車した。名前はTedim Guesthouse。昨日カレーミョのShin Hong Hotelでマネージャーが教えてくれたところだった。
僕は急ぎ足でフロントへ向かった。三人ともここに泊まるとバンの運転手が勘違いして放置されてしまうと若干困りそうな気がしたからだ。しかし、値段を尋ねるが、どうも英語が出来ないようなので、小分けした荷物を積み重ねて背負って入ってきたカップルに代わりに聞いてもらうと、シングル25000Kyatとの返答。
困った。一応払える値段ではあったが、しかしここで無駄に散財すると国境へと向かう時にトラブルに巻き込まれた際に困る。リスクマネジメントはやはりしっかりしておきたかった。
そこで、一か八かで町の中心の時計台近くにある安いゲストハウスを知らないかとカップルに尋ねてみた。この朧げな情報はカレーミョでWiFiを繋いで手に入れていたものだった。もう既に二人とも荷物を全部おろし終えて宿のチェックインをしていたが、まだバンは出発していないので、運に身を委ねてみた。
返答はあっさり、Yesだった。Ciimunai Guesthouseという宿が町の中心の時計台近くにあるらしい。間違いなくTedim Guesthouseより安いと確信に満ちたように言われた。どうやら彼らは以前そちらに泊まったことがあるらしい。そこで、自分の仕事は終えたと一息入れて席に座ろうとしているバンの運転手にCiimunaiに行きたい旨をカップルを通して伝え、僕は再びバンに乗車した。
Ciimunaiは思っていたより近かった。テディムの町をもう少しバンの車窓で満喫できるとか思っていたが、本当に呆気なかった。
Ciimunaiはまさしく時計台のすぐそば、長距離バスの予約代行屋のすぐ後ろにあった。入ると目の前にフロントがあり、偶々居合わせた男性スタッフに聞くと12000Kyatとのこと。Teddim Guesthouseの半額以下だ。勿論建物全部が簡素な木造の作りなようだが、それが逆にノスタルジックで趣深く感じた。僕は一片の迷いもなくここに即決した。
木組みの上に布団を敷いた形のベッドでしばし休憩を取った後に、テディムの街へと繰り出してみた。
乗り合いバンの車窓から見た時に既に気づいていたことではあるが、テディムは如何にも原風景という単語を用いて表現すべきといった世界だった。テディムはチン州の中でも有数に大きいまちである。それでも、山の上にあるという弱点は非常に大きく、まちの規模は大きくとも、その空間を深化させるだけのインフラと物的豊かさの乏しさを実感した。
その一方で、テディムで驚いたのは、やけに話しかけられると言う点である。
時計台から少し離れ、住宅街方向へと伸びる、落ち着きある道を歩いていると、いかにも暇そうにしている中年のおじさんに立て続けに話しかけられた。遺伝的な話で東アジア寄りの顔立ちをしているチン州の人々からしても、水色のウィンドブレーカーを着ている僕は余所者であると容易に判断できてしまうようだ。
しかし、話しかけられたは良いのだが、困ったことに彼らは英語が殆どできなかった。これは後々宿で呑気に留守番をしていたオーナーに聞いたことだが、このまちを訪れる外国人は殆ど仕事としてらしい。確かに道を歩いていると、ワールドワイドなNPOである某のこじんまりとしたオフィスもあったし、そもそもチン州は一部を除いて外国人の入境が制限され続けてきて目星い観光スポットもないし、そもそもここまでの道のりを踏まえても、外国人観光客が来ないのは容易に納得できる事実であった。
ただ、中年男性はどちらも、英語が殆どできなくとも何となく単語単語で理解はできているようだし、僕の持っていたミラーレスカメラで写真を撮ってくれなどと頼んでくるほどであった。こんな僻地で何でおっさんの写真を撮っているんだと自分でも可笑しく思えたが、それはそれで和む体験であったし、何よりこのテディムというまちが些か面白そうだと感じた瞬間だったりした。
テディムのまちを歩いていると、カレーミョの時と同じように教会が乱立していた。テディムは山の斜面に広がっているのだが、教会の多くはその斜面の上にあって、そこからの見晴らしは非常に綺麗なものだった。斜面の上にある以上、いちいち急な坂やら階段やら登らなけらばならないのは面倒なものだったが。適当に歩いているとだんだん日が傾いてきたので一旦宿に戻る。
昼食は抜いていたこともあって、やや早めだが夕飯を取ることにした。入ったのはAsian Restaurant Tedim。再び大通りを歩いていて英語&写真付きの看板だったので、特に問題はないだろうという直感を信じた。
この直感は正解だった。店は家族経営のようだったが、給仕を担当している若息子らしい男性は英語を流暢に扱うことができた。しかもミャンマービールやダゴンビール、ワインなどのアルコール類も十分揃えてあった。
僕は、(金銭的な余裕も加味して)ダゴンビールの缶と焼き鳥、ライスを注文した後に、折角なので若息子にこの辺りの暮らしについて色々質問した。特に気になったのは下の記事に書いてあった第二次大戦に関連する遺品収集の話だ。僕はてっきり、人伝てに辿っていけば、チン州北部の中心地とも言えるテディムのどこかでそういう品々を見ることができるんじゃないかと淡く期待していたのだが、彼曰くテディム周辺ではなく、ここからさらに北にいったところがホットスポットなようだ。しかしそれでもこの辺りに伝承される日本軍に関する話を諸々聞くことができたのでかなり有意義だった。
だいぶ長居してしまった後に宿に戻る。兎に角暗い。街灯がほんの僅かあるかないかの世界線であるし、何より道の整備が中途なまま放置されているので、時々足元を取られて結構危なかったりする。しかし、そんな暗闇の中からキリスト教ならではの賛美歌を聴くこともできて、それはそれでノスタルジックだったりもした。
宿に戻ってとりあえずシャワーを浴びる。シャワーと言ってもシャワーノズルはなく、言うならば水浴びなのだが、Ciimunaiの凄いところはきちんとぬるま湯以上のお湯が蛇口から出る点だ。給湯に関してはオーナーが相当な尽力をしているとか何とかという話もあったが、もしそうだとしたら感動ものだ。
水浴びを終えて、ちょっとした溜まり場で休憩していると、気になる写真を発見した。どうやらこのCiimunaiはテディムから南に10km近く離れた所にあるSaizang Villageで子供たちの教育活動を行なっているようだ。この辺りも如何にもキリスト教精神の現れと言った所であるが、そういう支援の意味でもこの宿に宿泊する意義はかなり大きそうだ。
あまりにいい雰囲気だったので折角だからもう一泊することも検討したが、金銭的・時間的余裕を加味して先を急ぐこととする。次回はいよいよ国境までの道程、そしていよいよインド突入です。
ミャンマー・インド国境は茫漠なオフロードの先に ー ミャンマー・インドの旅(8)
※マンダレーから国境を超えてインドのアイゾールに到達するまでの記録は既に英語で下の記事にまとめましたが、日本語でより詳しく振り返っていきたいと思います。
カレーミョのShin Hong Hotelで一泊。朝食はGoogleのレビューによるとやや酷評気味だった。でもまあ無料である分には食べておいた方が特だという妥当な判断から食堂に向かってみると、想像よりもかなり綺麗に仕込みがされている。そして、美味しい。
カレースープ、目玉焼き、バナナ、天ぷらに近い揚げ物、野菜炒め、ライスにパン。
味覚音痴だとかそういう問題ではない。
これは普通にGoogleレビューを書いた側に問題があるというレベルだった。
さて、今日は国境手前の街、チン州・テディムへと出発する日だ。
乗り合いバンの予約は事前に宿のフロントにお願いしてあった。料金は8000kyat。国境のRihkhawdarまでは15000kyatとのことだったが、前に観ていたYouTubeの動画以来、テディムにぜひ行ってみたいという衝動のようなものが消える事なく続いていたので、迷わず前者を選択した。
朝食を食べ終えてロビーに戻るとすでにピックアップでバンが到着していた。見ると何人かの乗客が既に乗り込んでいる。僕は如何にも日本人らしいお人好し精神を発揮し、二階の部屋に戻るや否や、荷物を手っ取り早くまとめてチェックアウトし、急いでバンに乗り込んだ。
バンは一旦バスターミナルへ行き、料金を徴収された後に西進する。乗客は運転手を除いて6人。バンは普通に大きいので特に窮屈さを感じることはなかった。
しかし、唯一の難点は助手席に乗ったおばちゃんがとにかく喋り倒す人間だったことである。運転手と顔馴染みなのか、結構な声量でいつまでも話が途切れない。どこに行ってもおばちゃんの活力たるは無限である。
いつになったら疲れて静かになるのだろうかと思っていたら、丁度山道へ入らんとする所でバンは路肩に止まった。すると、騒々しかったおばちゃんが急に念仏のような強弱のはっきりした流れのある声で何かを唱え始める。周りを見渡すと、誰一人としてその急激な物々しさに動揺すらせずに、ただただ目を瞑り、首を垂れていた。
それを見てそれがローカルなお祈りである事を直感的に悟った自分は、とりあえず見様見真似で目を瞑り、おばちゃんのお祈りが終わるのをじっと待った。
そして最後、"Amen"が車内一体となって響き渡ると共に、お祈りは終わった。(勿論自分は言い逃した。)そして何事もなかったかのように、バンは再び走り始める。
お祈りは感覚的なせわしさに比べて、実際はそんなに長くはなかった。
が、間違いなくこの1分半ほどの空気の変化こそ、これから突入する文化圏がこれまでのミャンマーとは異なっていることを感じさせる瞬間だった。
このお祈りから結構経っただろうか、あまり正確には覚えていないが、段々と道路が地面剥き出しになったりならなかったりを繰り返し始める。揺れは勿論だが、丁度乾季ということもあって、砂埃がひどい。道路幅が対向車と難無くすれ違えるくらいの時は完全にホワイトアウトである。舗装というのは、単に揺れとか、スピードとか、ガソリンの消費効率とか、一辺倒にしばしば語られるもの以上の効果があるのだなと実感した。
ちなみに、今回はいつも日本から数枚持ってきている使い捨てマスクが一番重宝された旅でもあった。
途中、朝食を兼ねた休憩があった。自分はもう既に宿で食べ終えていたので適当にぶらついたのだが、いよいよ来るところまできてしまった感がした。勿論良い意味で、である。
バンは再び走り始める。
助手席のお祈りおばちゃんは朝食を食べて眠気が襲ってきたのか、急に黙り込むと、うとうとし始めていた。その頃になると、僕もこの原風景に見慣れ始めたのか、徐にその地で暮らす人々に思いを馳せるようになった。しかし、彼らの価値観をどんなに慮った所で、数秒単位で変化していく視覚情報のみでは、彼らは所詮「彼ら」として見なすほかできなかった。そんな情けなさから突如として空虚な気持ちが襲い始めたので、変な事は考えず、ただ視覚のみに集中し、その一瞬一瞬を克明に脳裏に焼き付けるという単純作業に徹する事とした。
暫く走っていると急に砂埃でベージュ一色だった視界が急に開ける場所があった。
と同時に、バンは相変わらず何の口説明も無しに、だだっ広い路肩に停車した。一番ドアよりの席に座っていた自分は、こんな辺鄙な場所で止まると言う事は何かしら降りなければいけない事情があるのだろうとすぐに察し、経年疲労で凝り固まっているドアを両手で無理やり開けて外に出た。
するとそこには360°、濃い緑色をした山々が広がっていた。ここはどうやら、所謂絶景スポットと言うべき類の場所なのだろう。隣に座っていた男女二人のカップルは僕の背中に続いて外に飛び出すと瞬く間にいちゃつき始め、写真を撮り始めた。僕は何となくそんな瞬間を邪魔してはいけないという理性と、単純に独りで美しさを独占したい欲から、彼らの声が聞こえない程度に距離をとってミラーレスカメラ越しに景色を眺めつつ、若干の感傷に浸っていた。
すると、何を思ったのか、カップルは僕の方に歩み寄ってきた。そして、写真を撮ってあげようか?と流暢な英語で話しかけてきた。どうやら独り身の僕のぼーっとした姿を気にしてくれたようだ。折角なので僕はミラーレスではなく、バックの前ポケットからスマホを取り出して、25歳くらいの女性の方に渡した。特にポーズも無しに、体が持っていかれるかと思うくらいの風の中で、数枚、撮ってもらった。そして彼女は一言。
「独りでどうしてこんな所に来てるの?今日、バレンタインでしょ?」
まさかこんな辺鄙な地でストレートな煽りを受けるとは思いもよらなかった。
が、生憎僕はその瞬間までその日がバレンタインだなんてこれは意識の範疇に無かったので、とりわけ彼らのいちゃつきを見て変な妬み、嫉みを感じることもなかった。
割り切っていた。
バンは再び走り始める。
車内に戻ってもカップルとの会話は大分続いた。
どこから来たのか、どうしてテディムなんて行くのか、テディムの宿はもう決めているのか。テンプレートのようなやり取りだが、その一つ一つが今回の場合は貴重な情報になるので、一言一句聞き逃すまいと珍しく集中して会話をした。
するといつの間にか、家が立ち並ぶ景色がやけに長く視界に入るようになった。
聞くともうそこはテディムだった。
明日はテディムでの彼是についてまとめていきます。
典型的ミャンマーと秘境的ミャンマーの混ざり目、カレーミョ(Kalaymyo)ーミャンマー・インドの旅(7)
※マンダレーから国境を超えてインドのアイゾールに到達するまでの記録は既に英語で下の記事にまとめましたが、日本語でより詳しく振り返っていきたいと思います。
17時間の決して快適だったとは言えないバス旅を経て到着した街、カレーミョ。地域区分としてはザガイン州に属する。
同じく山岳地域にある隣のチン州北部への物資供給、そしてインドとの交易を行う上での拠点となっている、僻地系ではミャンマーでも有数に大きい街である。
それゆえ、ミャンマーからインドへと抜ける際、
- アジアハイウェイ一号線のルートに沿う形でザガイン州のTamuへと向かう場合
- 悪路の山を超えてチン州のRihkhawdarへと向かう場合
いずれにおいてもこのカレーミョをほぼ確実に経由する。
ただし、Tamuへと向かう際、基本的にマンダレーから同じバスで行く事ができる為、カレーミョを経由すると言っても、しばしの休憩を兼ねた客待ち程度だと思われる。
その一方で、Rihkhawdarへ行く際には、バスではなく乗り合いバンへと乗り換えなければならない。そしてその乗り合いバンは原則前日予約制である。恐らくその辺のガバナンスは緩いと思うので、当日にバスターミナルへ行って予約する事ももしかすると可能なのかもしれない。ただ、バンは朝7時半から8時くらいに出発してしまうので、バスが順調にカレーミョまで到着したとしても、当日予約にチャレンジできるそもそもの可能性自体はそんなに高くないような気がする。
何れにしても自分の場合は腐る程に修理が繰り返されながらカレーミョに到着した(昨日の記事参照)ので、カレーミョの街で一泊する事が強いられた。
と言っても、普通に予定通りだったのだが。
(昨日の記事↓)
さて、問題は宿探しである。
Trip Advisorで探したところ、まともに予約できそうなところは一軒しか見つからず、しかも4000円弱。貧乏旅にとっては尋常じゃない痛手である。ただ、他のブログ等を確認した(カレーミョまでは比較的情報がある)ところ、20ドルや15ドルという情報も散見されたので、とりあえず予算を15ドルに設定した上で宿探しを開始した。
- Hotel GBH Kale
Trip Advisorで予約こそできないものの一応掲載はされていたGBH Kaleにとりあえず行ってみた。が、外観からして高そうだ。まともな駐車場も備え付けられていたし、ここは一旦スルーさせていただくことに。 - LC Hotel
GBH Kaleから直進していくと、若干ランクが低そうな宿を見つけた。ランクが落ちると言っても、かなり新しめではある。試しに入ってみると、愛想のいい、英語のできる女性がフロントで出迎えてくれた。料金は20ドル。一応まあ予算内と言えば予算内なのだが、15ドルがあるはずなのでとりあえず保留した。 - SK Hotel
LC Hotelより先はあまり大きな宿も無さげだったのでUターンして再びバス停近くまで戻って三件目。中に入ってみるとLC Hotelよりもやや繁盛していた。上半身裸の中年男性がフロントにいたので値段を聞いてみると15ドル。ようやく見つけた15ドルだったが、繁盛&上裸に圧倒されて一旦保留。 - Shin Hong Hotel
SK Hotelの50mほど先にある、バスターミナルで紹介された宿。Googleでのレビューでも外国人のものがいくつかあったので、できたらここが良いなと目星をつけていた宿でもあった。しかし、料金を聞くと20何ドルとか言う。さすがに高すぎるのでSK Hotelに戻ろうとしたら、オーナーに止められる。SK Hotelが15ドルだったのでそちらに向かうと言ったらすんなり15ドルまで下げてもらえた。何故か知らないがその素っ気ない値下げに何となく気を良くしてしまった自分は、すんなりこの宿に決めた。
Shin Hong Hotelは、この胡散臭い値引き交渉の割にかなり良い宿だった。15ドルのシングルだが、薄型TVに冷蔵庫、最新のエアコンも付いていたし、ベッドも綺麗。シャワーもお湯が出るし、朝食もまあまあ美味しかった。もっと安い宿もあったのかもしれないが、普通にバックパッカーにもお勧めできる宿ではある。
宿でしばし休憩を取ったのちに街ブラを開始する。事前情報によれば、そこまで目星い観光スポットなどはないとのことだったが、まさしくその通りで、本当にただの街である。ミャンマー北西部の一大拠点なだけあって空港もあるのだが、空港と言うよりは飛行場に近く、わざわざ見に行く価値があるものでもなかった。
そんな中で唯一、「ミャンマーらしくなさ」という意味で惹かれたのは、そこら中にキリスト教会がある点である。ネット情報によれば、どうやらインド・ミャンマーがイギリス統治下となる数十年前から宣教師が訪れ、キリスト教の布教が始まったようで、カレーミョ周辺から西部、チン州やインド・ミゾラム州の山岳少数民族ゾミ(ミゾ)族の多くはキリスト教を信仰している。(詳しくは下のサイト(英語)等が詳しい)
ミャンマーは言わずもがな仏教徒がマジョリティである。それゆえ、クリスチャンが多いチン州は以前より差別の対象となってしまっていた。が、最近の民主化への傾向もあってか、ヤンゴンでもクリスマスが盛大に祝われるなど西洋文化が浸透し始めており、少なくともムスリム少数民族であるロヒンギャ族よりは状況が改善されつつある、ようだ。(詳しくは下の記事)
これらの情報は帰国後にしっかりと調べ直して初めて知ったことなのだが、我ながら、貴重な文化圏に入っていたのだな、と改めて実感させられる。
と言っても、目星い独特な差異は教会くらいだった。
日も暮れ始めたので、早めに宿に戻ることに。チン州に入ってからの金銭的余裕をどれくらい持っておくべきなのかイマイチ掴めきれなかったので、非常食がわりに持ってきていたインスタント麺で夕飯を済ませる。
明日からは、外国人の入境が依然解除されてない地域が存在する、未開の地・チン州についてまとめていきたいと思います。
故障連発。マンダレー〜カレーミョ17時間バス旅の一部始終ーミャンマー・インドの旅(6)
※マンダレーから国境を超えてインドのアイゾールに到達するまでの記録は既に英語で下の記事にまとめてありますが、今日からは日本語で振り返っていきたいと思います。
ミャンマー第二の都市であるマンダレーにはバスターミナルが少なくとも三つは存在している。ヤンゴンやその他有名観光地へと向かう大型観光バスは基本的に中心部から南に数km離れた所にあるバスターミナルがメインに使用される。
それに対して、クレイジージャーニーでお馴染みな「奇界遺産」佐藤さんの写真集にも取り上げられている大仏で有名なモンユワは西部のThiri Mandalar Highway Bus Stationが起点となる。今回の目的地であるカレーミョ行きのバスもここからだったので、とりあえず宿からバイタクで移動する。
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「バスターミナルは西側だよ」としか聞いていなかったが、奇しくも先日のiPhone蒸発事件にてお世話になったツーリストポリスのすぐそばにあった。入り口でバイタクのおっちゃんにGrabであらかじめ示されていた料金(忘れたがそんな高くない)を支払う。
バスターミナルはヤンゴンから来た時に使った南部ターミナルよりも相当小さい。写真の建物を中心に囲うようにバスとバン乗り場が並んでいるのだが、ローカル色がかなり強い。
今回向かうカレーミョへのバス乗り場は入り口を入って左奥にあった。入り口にいた中年のおっちゃんにバックパックを勝手に背負われて案内されたので例の如く金銭を要求されるものだと危惧していたのだが、バックを置いて乗り場の従業員に話を済ませるととっととどっかへ行ってしまった。
やはりここは通常の東南アジアとは違う、そう思った瞬間だったりする。
バスは中古の中国製バス。それでも上の千歳市スクールバスとかに比較すると、外ヅラからしてある程度信頼を置いても良さそうだ。
しかし、いざ乗車してみるとその信頼感もわずかに揺らいだ。内装がしっかりミャンマー風にアレンジされているし、何故か外ヅラに比べてやけにボロさがにじみ出てる。そして、恐らくこのバスは旅客輸送以外にも物資輸送としての役割も果たしているのだろう、バスの車内のうちの半分は山積みの段ボール箱が満たしていた。
しかし、以前ベトナム・ホーチミンからカンボジア・プノンペンへと向かうバスもこれと同じような感じだったし、その時は特に問題なく走りきってくれたので、依然今回のバスに関しても大丈夫だろうと、特に疑ぐる必要もなく、素直にそう考えていた。
甘かった。
バスはきちんと定刻通り3:00に出発。
ミャンマーの長距離バス名物と言ったところだろうか、安全祈願としての意味合いから、乗車後間もなくしてお経動画が流れ始める。
長距離バスではお経動画の後、大抵訳の分からない、パターンが固定化された、見るに耐えないコメディ映画が、爆音ととともに垂れ流され続けるのだが、自分は比較的お経のような単調な「音」が好きだし、何より爆音コメディが苦痛でしかないので、コメディなど流さず無限にお経を流し続けて欲しい、というのが個人的希望である。しかし、スマホを持っている「ナウい」ミャンマー人の若者はきちんとイヤホンを使って自分だけの娯楽を楽しんでいるし、スマホを持っていない中年のおっさん客は大抵コメディ映画にしっかりと見入っている(し、しっかり笑っている)ので、一外国人の希望など言う訳にはいかない。郷に入っては郷に従え、である。
乗車後20分ほどして、生憎お経が終了し、コメディが始まる。主演は一昨年ミャンマーに訪れた際に観た映画と同じ俳優だ。そして相変わらずつまらない。言葉は全く分からないが、理解してなくてもつまらなさが滲み出ている。
如何しようもないので、新たに購入した中華スマホに出発前慌ててダウンロードしておいた数曲を聴きながら早めに眠りにつく。
それから1時間半ほど経って、バスが初めて休憩の為に停車した。
ようやく陽が沈み始めた頃だったが、ドライバーに聞くとどうやら早めの夕食とのこと。ミャンマーに来てからこれと言ったミャンマー料理を食べていなかったし、カレーミョから先はまた文化圏が異なっていることだろうから、折角なのでここでしっかりと食べていくことに決めた。
席に着くなり、英語ができる若めの男性スタッフが来てメニューを教えてくれた。安パイのチキンカレーがあったのでそれを頼むが、チキンカレー以外のサイドメニューと呼ぶべきだろうか、兎に角付け合わせ料理が大量に頼まれる。そう言えば以前バガンでローカルレストランに入った時もこのような出され方だった気がする。その時はグループだったし、何よりあまりの暑さで食欲が失せかかっていたのでほとんど意識していなかったが、一人で来るとその量の膨大さにただただ呆然とする。(写真をなぜ取らなかったのか、今でも不思議なくらいだ。)
しかし、周りのミャンマー人を見る限りでは、これらを全部食べる必要は無さそうでとりあえず一安心。ご飯も櫃に入った状態で給仕され、ほぼほぼおかわり自由に近かったので、今後予算的にも地域的にもまともな食事に有り付けない可能性も考えて、ここで食べれるだけ食べておく。味もやや警戒していたのが馬鹿らしく感じた位には美味しかった。ここで飲んだミャンマービールも冷えていて美味しかった。料金はトータルで3500kyatだった。
午後6時。食事を終えて、バスから離れてぼーっと夕日を眺めていたら乗客の若めの女性に出発だと急かされ、慌てて乗車する。エンジントラブル未遂を繰り返しつつも、途中途中でトイレ休憩兼修理を挟みながら何とか進み続ける。
そして夜8時くらいからだろうか、だんだんと道路整備がまだ終わっていない区間に差し掛かる。どうやら山越えのようだ。
しかし、このバス、物資輸送を兼ねているからか荷重に対して馬力が全く足りておらず、坂道発進にかなりの難がある。運転手の補助的な男が逐一輪止めをセットしながら、数メートルずつ進んでは止まるを繰り返していく。
9時半ごろ、ようやく坂道をある程度攻略して、一旦休憩に入るのかと思いきや、本格的な修理が開始される。
場所は辺鄙な山道。月光がいい感じに照らしてくれていて、星空も綺麗で、最初の頃はその美しさに見とれている余裕があったが、修理の時間が経つにつれてすることもなくなり、段々と一抹の不安のようなものがよぎり始める。
こんな所で修理できなかったらどういう対応になるのだろうか。レッカーなどという概念は絶対存在しないだろうし。そういう体験をしてみたさも若干あったが、しかし今回に限っては時間的な制約もあるし、なるべく予定通りに旅を進めておきたいという気持ちもあった。まあ、兎に角身を委ねる以外術はないのだが。
色々と考えているうちに停車して1時間半が経ったくらいだろうか。停車した時には死ぬほど弱々しかったエンジン音がかなり元気を取り戻していた。まだまだ山道は続きそうで、もう一度壊れる気しかしなかったが、運転手たちは安堵の表情を浮かべてめちゃ喜んでいた。事実、運転再開後は助手セレクトの明るい音楽が車内に響き渡った。
11時半頃に大きめの休憩所に到着。一応トイレ休憩のようだが、相変わらず運転手たちはエンジンをいじくり回していた。それにしても夜空が綺麗だったので、逐一壊れては直すを繰り返してもらった方が、、、と思ったりもした。
何気に一時間ほど休憩所にたむろしたのち、12時半頃出発。ここで自然と睡魔に襲われたが、ちょくちょくエンジントラブルがあって起こされる。
それにしてもこの手の移動で一番運が試されるのは隣の乗客だ。このバス移動では完全にハズレのおっさんだった。こちらの席に際限なく体を乗っけてきて挙句の果てに上半身を寄せあいながら眠りにつく羽目になった。苦行だった。
起きたのは朝7時くらいだっただろうか。相変わらず道の状況は良くないが、この時間帯から働いている地元住民を見るとあーだこーだ言っているのが馬鹿らしく思えた。
ところで、ここら辺に限らずミャンマー全般において、積極的に地元住民を労働力とした道路整備を結構見かけた。自助努力の精神を養うと共に、労働による対価で貧困削減効果があると言われるのだが、この道はアジアハイウェイ構想に含まれる幹線道路である。まだ需要は乏しいとは言っても、今後インドとの貿易が活発になるとすれば、この道を通る自動車やトラックはかなり増加するだろう。果たしてこれでいいのか?とは思った。そもそもアジアハイウェイやインドとの貿易拡大など、念頭に置かれておらず、ただの大きめの農村道路としてしか認識されていないのかもしれない。
何はともあれ、8時すぎくらいになるとだいぶ文化圏を感じさせる街並みになる。どうやらカレーミョに入ったようだ。
そして8時半。カレーミョのバスターミナルに到着。田舎だが結構大きい。少なくとも昨日のThiri Mandalarよりは大きい。
やはりこの街がミャンマー北西部の一大拠点であることがみて取れる。
明日はカレーミョでの一日についてまとめたいと思います。
中国人の多さと夕陽の美しさが凌駕するマンダレーヒルーミャンマー・インドの旅(5)
昨日のヤンゴンの貧困地区・ダラはiPhone6消失前の出来事であったのに対して、今日のマンダレーに関するまとめは消失後の出来事である。
マンダレーもヤンゴン同様そこまで目星い目的意識を持っていた訳ではなく、あくまで国境へ向かう際の中継地点としての意識がかなり強かったのだが、消失事件とそれに関する各種処理手続き(特に警察への届出)等の影響で結局二泊することとなった。
マンダレーは、街の中心に一辺3kmほどの大きさを有する王宮や、そこから北東の位置に存在する小高い丘のマンダレーヒルとその周辺の各種パゴダや僧院が観光名物である。しかしあくまで個人的な話ではあるが、マンダレーヒル以外はこれらはミャンマーでは普遍的なものに感じてしまっていた(と言っても古都マンダレーにあるものはその中でも中心的な役割を果たしている訳だが)し、かと言ってマンダレーヒルを登る気力もそこまで無かった。それゆえ、行くとしたら郊外にある夕日の絶景スポットとして有名なウー・ベイン橋や、土台だけ出来たまま未完に終わったミングォン・パヤーかなと日本を発つ前は何となく考えていた。
こういうのとか、
こういうのを淡く期待していた。
それが、例の事件発生によって、そんな事は意識の外に行ってしまった。マンダレーの総滞在時間の約6割は意気消沈していた気がするし、当然郊外へ行く気力も完全に失せてしまった。しかし、警察での事情聴取と書類作成を経た辺りからだろうか、ある程度気分が落ち着いてくると、マンダレーで観光らしい観光を何もせずに出発してしまうことで、それもそれで後悔のようなものが後々生まれてきてしまうような、そんな気持ちがふつふつと湧いてきた。
そこでかなり衝動的な感情に身を委ね、マンダレーヒル(と王宮の外濠)だけ宿から歩いて行ってみる事にした。今日はその記録である。
宿
マンダレーヒルまでの道のりを説明する前に、今回のiPhone消失に際してかなりの面で支えてくれた宿について紹介したい。
泊まったのは、Ace Star Backpacker BnB である。
場所はマンダレー中央駅から簡単に歩いていける距離に位置する。ここは何と言ってもスタッフがかなり親切かつフレンドリーだった。自分の記憶を辿ってもここまでだったのはウズベキスタンの Sakura Hostel くらいだが、Sakura Hostelの場合はスタッフの愛想の良さの幅が恐ろしく広い一方、Ace Starはスタッフ全般が笑顔で接してくれた。今となってはあの時のスタッフが優しく接してくれた事が自分の傷心が治るスピードを早めてくれたのかもしれないとも思う。
それ以外の点に関しても、WIFiは申し分なく、朝食はそれなりに美味しいし、清掃もだいぶ行き届いているのでかなり快適に過ごす事が出来た。マンダレーリベンジの際には間違いなくこの宿をもう一度選ぶだろう。オススメである。
マンダレーヒルまでの道のり
Ace Starからマンダレーヒルの頂上にあるスタウンピー・パゴダまで今回歩いた道のりは以下のような感じである。Ace Starとマンダレー中央駅はせいぜい200mほどしか離れていないので、駅から歩いて行く際もほぼ同じである。基本的に王宮の外濠沿いを行けば丘のふもとまでは辿り着けるのでそこまで難しくはない。
ただ、今になってGoogle Mapで距離を調べたところ、下の王宮の右外濠を歩くルートより左外濠を歩くルートの方が短いらしく、しかもいずれのルートを取ったとしても片道7km超あるようだ。あの時は精神状態がやや不安定だったのが功を奏したのか、距離などあまり考えずに突発的に行って帰ってきてしまった。
が、普通にマメが出来たので、往復15kmほど(しかも山登りを含む)歩くよりかは、せめて麓付近まではバイタク等を雇うのが賢明だろう。
それでも歩いていきたいという人向けにルートの説明を写真を中心にまとめていく。
まず、王宮周辺は無限に外濠を歩いていけば良いわけだが、風景が変わらなすぎて麓手前の最後の2kmくらいは結構苦痛だったりする。それゆえ、道に迷う心配がないようなGPS環境下であれば、外濠ではなくダウンタウンを歩きながら行った方が楽しめるのではないかと思う。
麓から頂上へと向かう階段の目印となるのは二体の白獅子である。ミャンマーの他の寺院と同じくここで靴を脱いで頂上へと向かう。
なお、日暮れを見たいが為に急いで登ったが、それなりにきつかった(単純に4km弱歩いた後だったからかもしれないが)ので、麓から頂上までタクシーやバイタクを雇うことも時と場合に応じて検討されるべきであろう。
階段を登っていくと、ところどころに黄金の立像がある。地球の歩き方に依ればそれぞれに意味があるらしいが、生憎日没までの時間がなかったので先を急いだ。
だいたい登り始めて1時間弱と言ったところで頂上に到着する。頂上入場料の形で1000kyatほど徴収される。
幸いにも夕日はまだ沈んでおらず、良い感じの風景を拝めることは出来そうだと安心したのだが、それよりも驚いたのが中国人観光客の多さである。
ヤンゴンでの上の記事にもまとめたように、ちょうど自分が行っていた時期は中国の春節と被っており、バンコクなどでは地獄のような中国人で溢れかえっていたのだが、ミャンマーではそこまで中国人の多さを意識することはない、という印象が前回来た際から持っていた。しかし、ここは違った。完全に中国人の巣窟であった。
頂上について30分ほど経ってからだろうか、ようやく夕陽が赤みがかり、その灯で寺院もオレンジ色に染まり始める。中国人が一斉に夕陽を写真に収めようと西側に群がり始めるのだが、その間を何とか掻い潜って写真を数枚収めることが出来た。
しかし、それにしても残念なのは西側にゴルフ場があることだ。ミャンマーはなぜか知らないが景観よりもゴルフ場を好む。バガンも規模も価値も優に世界遺産と言えるべきものなのに依然登録されないままである原因の一つがゴルフ場だったと記憶している。
生憎この日は雲が多く、沈みゆく太陽を拝むことが出来る時間はかなり限られていた。中国人は早々にチャーターしたタクシーで帰っていったので、雲の隙間から最後少しでも夕陽が姿を現してくれる可能性を信じてだいぶ暗くなるまで待ったのだが、結局現れず。しかしそれでも、かなり綺麗な景色は自分のiPhone傷心を何となく癒してくれた気がする。
帰り道は僧院の修行僧が話しかけてきたので彼らと一緒に階段を降った。やたら若い修行僧が多いので毎日登っているのかと勝手に思っていたのだが、どうやら学期始めに登っているだけらしい。
傷心もこのマンダレーヒルまでの無駄に疲れる道のりを歩いているうちにどこかへ消え去ってしまいました。そう言った意味ではかなりのリフレッシュにもなったのかもしれません。(その代わりにこの数日後まで痛みに悩まされるマメが出来ましたが、、、)
明日はマンダレーを発ち、国境へ向けての前線拠点と言うべきカレーミョまでの道のりについてまとめていきたいと思います。
尚、国境を通過するルートに関しては、旅の途中で複数の方から要望があったので、既に英語でまとめてあります。明日以降、日本語でより詳細に書いていく予定ですが、もしお急ぎで情報が欲しいという方がいらっしゃいましたら下の記事を参考ください。