国境越えと年越しー境界とは何ぞや・プロローグ(1)
昨日のブログで、ここ一年以上続けている(と言っても大学の長期休暇の間だけであるが)、「アジア国境越えの旅」をまとめていくと宣言(?)した。
この趣味を一つ大きなテーマに選ぶワケ、それは自分自身で趣味としておきながら、
「何で国境なんて超えてるんだろう...」
と思うことがしばしばあるからである。俗に言うところの倦怠期に近い。
一番初めに超えた国境は、タイ・ミャンマー国境であった。渡った後に知った事であるが、この国境はつい最近までミャンマー軍と少数民族武装勢力が対立していた。そして現在に至るまで、母国から避難せざるを得なかったミャンマー人が難民としてタイで生活している。
(余談だが、この難民キャンプには一昨年阪神の鳥谷選手が訪問している。)
このような背景を知っていると尚更この国境を越える意味を噛み締めることができたのかもしれない。ただ自分のようなならず者には、初めて国と国の境を超えたということ自体が、今後の人生の大きな糧となるような気がした。そしてこの国境越えでのインスピレーションに似たものが、「自分探し」という定番中の定番の言い訳をもとにやっていたこれまでののらりくらり旅のあり方を変えようか考えていた自分に突き刺さった。
そんな感じで、国境に目的意識を向けた旅をスタートさせ、約1年半、超えた国境は二桁に達した。しかし、これは現在のところの結果論であるが、ミャンマー・タイ国境を越えてから今まで、依然として一番初めの衝動に勝る場所はない。
「もしかすると、ミャンマー・タイ国境がただ特別なだけだったのかもしれない。」
「もしかすると、自分の旅の独自性を無理やり見出した無駄な行いだったのかもしれない。」
「もしかすると、国境を越えること自体には何の意味もないのかもしれない。」
そうこう悩み始めている中、一つ些細な出来事があった。
2018年大晦日。コタツに入り、年越しそばは早々に食べてしまって「ガキ使」を観ながら過ごし、新年まで残り5分くらいになった時にNHKにチャンネルを回し、「ゆく年くる年」の除夜の鐘を聞き、雰囲気だけでも厳かな感覚を体得した上で新年を迎える、と言うのがここ10年の我が家のルーチンワークだった。
しかし、去年は微妙に違った。勿論ルーチンワークは続けていたし、全てのタイムスケジュールは一昨年以前とほぼ同じだったはずなのだが、どことなく大晦日に特別感を感じられず、実家に帰省しのんびり過ごす一日としての意識が主であった。年越しの瞬間も、初めて「0:00」を観た小学生中学年時代に比べると、そこにあったはずの「年」と言う区切りを「越す」と言うワクワク感は薄れ、時間はすごく連続的に感じられた。
そしてこれこそが最近の国境越えの旅の倦怠感そのものと同じ感覚だったのである。
結局、何かを越える経験は、超え続けているうちにそれ以前の期待値を上回らなくなってくるものなのかもしれない。
以上が、
境界を超えた時の謎のワクワク感と飽きは何なのか
さらに言えば
境界とは何のためにあるのか
という答えのなさげな、しかし考える価値もあるような疑問に導かれたという流れである。全くもって仮の結論には達しておらず、大学の試験も近いが、明日は今の雑感を軽くまとめていきたい。