境界を越える。なくす。ー境界とは何ぞや・プロローグ(2)
昨日のブログでは、国境を越える体験とこの前の年越しの体験のつながりから、最近の境界萌えを書いた。
国境越えの旅に限定せず、自分の今までの体験に基づけば、「 何かしらの境界があり、かつそれを超えることに不都合を伴わない時、その境界を超えることに胸が高鳴る」というのは人間の性のように感じる。
神社の鳥居をくぐった時の厳かさ。第一志望の大学の門を叩いた4月の緊張と期待。徹夜して課題に追われる絶望。
感情の善し悪しとその程度に差はあれ、異空間に入り込んだような、何かを越える感覚はイメージしやすい。そして、その境界は時に線であったり、平面であったり、空間であったり、時間であったりする。さらにどこからを境界と定義するかは人それぞれであり、明確な設計基準と言うものはないに等しい、らしい。
ただ、これらの境界に対するワクワク感は、いずれダレる。ディズニーリゾートの年間パスポートのヘビーユーザーは、余程の暇人か、それを生業としている人間くらいだろう。彼らは外見だけ楽しんでいるように見えて、内面は激安スーパーの詰め合わせに殺到する主婦と変わらない(偏見だが。)
そしてこの「飽き」が時間を経ていく中でだんだんと募り、それと共にワクワク感という謎の衝動が抑制されてくると、良い意味でも悪い意味でも安定した判断ができるようになるのかもしれない。これが歳を取ると言うことか。
明日やれることは今日しない,明日やろうは馬鹿野郎,いろいろあるけど,睡眠不足の自分から見た世界には今日も明日も区別なく淡々と進み,全てを忘れていく.それがエモい.そうだ,今日も明日も関係ないのだ,ってやつ.こうやって脳を壊していくことを受け入れることも生きる楽しみの一つだ.
— 落合陽一 (@ochyai) January 11, 2019
・・・話を変える。
最近よく話題に上がるものの一つに、お台場に完成したteamLabによるデジタルアート作品「Borderless」がある。残念ながら自分はまだ実際に作品を体験したことはないのが、teamLabのトップである猪子寿之さんは以前TEDを観たこともあり、その考え方について感銘を受けたことをよく覚えている。
「Borderless」が提供するものは、「自分」と「世界」の間にある無意識の中の境界線を取り除き、両者がまるで連続体であるかのように感じるという価値である。思うに、Borderlessはあくまでアート作品であるものの、境界線を無くそうとする概念はしばしば理想のかたちとされがちだ。
youtu.be
今の時代、アイドルでさえ国境の存在意義を問う。勿論天才的(変態的)作詞家秋元康のメッセージではあるが。
しかし現実に目を向けると、人間は混沌の中に暮らすことでストレスを必然的に受けるものだと常々実感させられる。〇〇人とか、〇〇出身とか、そういう何かしらの区切りには自明にニーズがある。思うに、猪子さんや秋元さんも境界が完全に消えた世界を想像している訳ではないだろう。仮説だが、目指しているのは、昔から続く境界意識に対してアンチテーゼなものを説き、現代社会と中和させることによって、無駄な境界を「減らす」ことのように感じられる。
そして一番の問題は、境界には、越える人間の視点と超えられる人間の視点があり、後者の対応が圧倒的に難しいことなのかもしれない。
終わりが見えない。これからは思いつき次第雑記に近い感じで「境界とは何ぞや」を考えていきたいと思います。