はざまを彷徨う

世の中の境界とそのワクワク感についての個人的雑感

ヤンゴンの超有名貧困地区・ダラで感じる異質な貧しさーミャンマー・インドの旅(4)

 

突然だが、旅なるものは読書に似ていて、無意識のうちに生じている一連のリズムがあると思う。特に今回のような、事前の旅程設定はざっくばらんで、後は行き当たりばったり、のような旅になると、旅程の自由度が高すぎるがあまり、自分の中でしっかりリズムを刻んで目的地間を移動していかないと最終的なゴール地点に上手くたどり着かなかったりする。無論、ゴールに辿り着こうがどうだろうが、納得や満足感さえ得られれば何の問題も無い訳だが。

 

そして、それに関連して、旅を振り返る系の所謂旅ブログなるものは、毎日投稿することを習慣づけない限り、自分の旅をリズムに合わせた流れとして内省できないような気がする。

それ故、先々月までまとめていた中央アジアウイグルの旅に比べて、今回の旅は(まだ出発地点のヤンゴンから出ていないというのに)振り返りに一ヶ月以上の中断があったせいで、iPhone消失前と消失後に旅の流れに大きな断絶ができてしまったような気がしてならない。

しかも、今回の事故(事件)は、起承転結で言う所の最大の転である訳だが、それがヤンゴンに到着して三日目、旅全体から見るとかなり前半であった。そのせいで、それ以降の旅の流れにおいて転となり得る時機がどうしてもぼやけてしまった感が否めない。

 

が、逆に言ってしまえば、iPhone消失を一つの区切りとし、きちんと流れを意識してほぼ毎日ブログ投稿を行いさえすれば、実感覚とは違うともiPhone消失後の旅のメリハリをしっかりと見直すことができる気がする。

 

ということで、今日からまた頑張って投稿を続けていきたいと思う、、、

ところだが、今日だけはiPhone消失前の物語である。

 


 

今回の旅において主たる目的地に設定してあったのはミャンマー・インド国境とその周辺地域であり、ヤンゴン巡りは自分の中でかなり重要度が低いものだった。

しかし、そんな中で唯一明確な意志を持って向かったのが「ダラ地区」である。

 

ダラはヤンゴンでも言わずと知れた貧困地域である。場所はヤンゴンダウンタウンから川を挟んで反対側に位置する。

ネットで検索すればいくらでも情報があるので興味がある人は調べて欲しい。

(投げやりで申し訳ないが、他人の情報の二番煎じはあまりする気が起きなかった。)

 

ダラだけ行くことを明確にしていた理由。

それは、今回の旅の小テーマの一つとして「貧しさ」に目を向け、自分なりに自問自答したい、というのがあった為である。前学期の授業にて、カンボジアにおける農村のケース通して、「貧困とは何なのか」という問いをずっと考えている機会があった。貧困と一言で言っても、何をもって貧しいと判断するかは主観に依存するし、自分自身で解決しようのない貧しさに対して何かしらの助けの手が入るかどうかは、主観とはまた別の第三者的視点にも依存する。特に対外援助のような大きなインパクトが絡む貧困対策には、より多くの視点を複雑に絡めながら貧困要素とその対策を講じる必要がある。それ故、とにかく貧困とは何なのか、明確な答えではなく、自分なりの気づきのようなものを積み重ねたいというのが、上の小テーマ設定の理由である。

 

さて、話を本題に戻すが、ダラへの行き方は現在、独立記念塔から少し南に行ったところの船着場から出ている連絡船を使うしかない。ちなみにこの船、日本の援助によるものであるため、日本人はパスポートさえ見せれば無料なので、最近は韓国の投資で連絡橋が建設中という情報があるが、完成したとしてもわざわざ橋を渡っていく必要はないだろう。橋梁マニアは除くが。

 

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中央奥に見えるのが連絡船。二階建てになっていて、二階の一部が外国人と僧侶の専用スペースとなっている。

ダラに到着すると、まずトゥクトゥクが稼働している事に驚かされる。このタイプの形状からして、トゥクトゥクと言うよりインド的にオートリクシャと言う方が正しいのかもしれないが、そんな事はどうでも良く、重要なのは対岸のヤンゴン中心部では殆どお目にかかれない乗り物であるという事だ。ただ、不自然なまでに「新しい」。そして、「多い」。トゥクトゥクメーカーに関して知識が乏しすぎてマークを見ても全く見当がつかなかったが、どこかの国から投資された感が否めない。

何れにしても、地域区分としては同じであるのに、まるで国境を跨いだかのような乗り物の変化(ちなみに対岸で良く見るCity Taxiは皆無に近い)を見て、ダラがいかにヤンゴンとは隔絶された地区であるかを素直に察した。

 

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そもそもどうしてダラはここまで貧困の街として認識され続けているのか。ネットの情報に依れば、元来漁村であったダラは、2004年のスマトラ沖地震津波や2008年のサイクロンナルギス等の自然災害によって非常に脆弱で甚大な被害を受けた。何より漁村であった為に、生活の糧の為に必要不可欠な漁船への被害が大きかったようだ。その名残が今でも残り続け、依然多くの住民はバンブービレッジと呼ばれる簡素な床上住宅やバラック小屋での生活を強いられている、という流れであるらしい。

 

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天災を治める為に建てられたのだろうか、新し目の寺院が船着場が少し歩いた所にあった。

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このような脆弱性の塊とも呼ぶべき小屋が点在する。

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サッカー場。野生の牛が屯していた。

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サッカー場の敷地内にあるバイキングとメリーゴーラウンド。無論稼働などしていない。

上のようなバラック小屋を歩いていると、ガキが絡んできた。まあこういう事は珍しくはないのだが、少し異質だった。というのも、彼らは笑いながら、「I'm hungry, give money」と言ってきたのである。

後半の文章は完全にテンプレートなので特に言及する必要はないのだが、笑いながら、という点にだいぶ違和感を覚えた。彼らは明らかに遊び感覚で金を恵んでもらおうとしていた。しかもこれは自分の勝手な思い違いなのだろうが、彼らの目は明らかに自分を嘲笑うかのようだった。

何れにしてもここまで「物乞い」という行為が普遍化している(ように見える)世界は初めてだった。事実ネットで調べると、「ぼったくり」や「scam」という単語が当たり前のように並ぶ。しかもその額は数千円単位らしい。ここまで来ると、月に三人くらい観光客を捕まえ、金を払ってもらえば、子供を抱える家庭でも一般的な貧困ラインである1.25$/dayを超えるのではないか。そう考えるとぼったくりは完全に彼らの生業になっているのかもしれない。(その気になれば、子供でも出来てしまうという点もポイントなのだろう。)

 

そんなダラの今後はどのように変化していくのだろうか。

個人的には、現在建設中の連絡橋が完成する事によるインパクトがかなり大きいのではないかと思う。

現状としてのダラは、今後前と同様の津波やサイクロンが襲来した際に、以前よりも被害が低減され得るような復興が寺院建設以外何一つ実施されていなさそうな状況であり、橋の建設には資材輸送をより活発にさせてくれる働きがありそうである。勿論外国からの資金援助あってこそであろうが。

その一方で一つ疑問に思ったのは、トゥクトゥクが連絡橋を渡ってヤンゴン中心部に向かうことが可能になった時、現状全く走っていないトゥクトゥクはある意味でダラの人間が乗っていることを示す証拠となり、差別の象徴に繋がってしまうのではないかという点である。乗り物で差別が助長される例などあまり聞いたことがないが、果たしてどうなるのだろうか。

 


 

明日はiPhone消失後、意気消沈しつつも前も向き始めた頃のマンダレーでの日記です。