旧・シルクロード復刻版ーアジアハイウェイを模索する(1)
この前、中央アジアの旅のコーヒーブレイクに中国の一帯一路をいい感じに喧伝している様々な曲を紹介しました。
この時、一帯一路とは違うものの、「シルクロードの再興」という似た宣伝文句を使っていた、とある国際的事業の存在をふと思いつきました。
その名もアジアハイウェイ。
総延長は14.1万km。名前の通り、アジア全体を大規模幹線道路で結ぼうという事業であるがゆえ、地球3周を余裕で超えてくる長さです。
そして、複数あるアジアハイウェイのルート設定のうち、その基軸となっているアジアハイウェイ1号線(AH1)の起点はなんと、東京・日本橋。
このような看板が首都高にあるという話を聞いたことがある人が、もしかしたらいるかもしれません。
引用:
今日からは、この果てしなく壮大ながらも、その規模感ゆえ事の重大性が分かりにくく、島国日本においては依然として馴染みのない(ように感じる)、「一帯一路の前任」とも言えるようなこのアジアハイウェイ事業について色々と模索していきたいと思います。
なお、このブログは無知な自分の理解を深めるメモ要素を多分に担っているので、まとめ方はかなり雑です。悪しからず。m(_ _)m
今日のテーマ
アジアハイウェイとは何ぞや
そもそもアジアハイウェイは、各国ごとに整備される高速道路を越境交通インフラとして整備・接続させることをもって、国際的な連携を目指していこうという発想に基いていて、その陣頭指揮は国連アジア太平洋経済社会委員会(UNESCAP)が取っています。
このようなアジア圏における国際機関は元来日本が躍起になっていたこともあって、日本が謎の裁量権を有しているパターン(例:アジア開発銀行(ADB)の総裁が代々日本人)もあるっちゃあるようなのですが、このUNESCAPに関してはパッと見その気配はなさそうです。
(ちなみに現在のUNESCAP総裁はタイ人女性。)
まあ、そんな訳で、日本政府がアジアハイウェイ事業に対して基本的に取り組むべきことは、ほぼほぼ「日本国内の高速道路を整備すること」になります。
事実、国土交通省によるアジアハイウェイの紹介も下の通り、良い意味でも悪い意味でも簡潔な内容です。
アジアハイウェイは、アジア諸国を幹線道路網によって有機的に結び、国内及び国際間の経済及び文化の交流や友好親善を図り、アジア諸国全体の平和的発展を促進させることを目的としています。
アジアハイウェイ・プロジェクトは、国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)を中心に、関係国32カ国の他、日本などの協力により推進されています。
引用:
何というか、国交省のサイトで使用されているこの画像の古めかしさが、日本がアジアハイウェイに対してそこまで積極的ではないことを物語っているような気がします。
アジアハイウェイの変遷
ではそもそもアジアハイウェイというアイデアはどこから生まれ、発展してきたのか。
そのルーツは、1959年まで遡ります。
元来アジアハイウェイというのは、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)によって提案されました。当時の目的は、国交省HPによれば、
「アジアとヨーロッパを結ぶ道路網を形成し、地域間および国際間の経済・社会開発に貢献し、かつ貿易と観光産業を育成しようとするもの」
という内容で、現在と基本的には変わりません。
しかしながら当時は、
などの理由もあって、東南アジア、南アジア、南西アジアをカバーする形でルート設定がなされました。
またこの当時、島国である日本はアジアハイウェイへの路線参加は行なっていませんでした。
ちなみに当時の予定総延長はおよそ6万5千km。現在の計画総延長の半分以下になっています。ではいつから距離設定の変更が行われるようになったかと言うと、1990年代以降の話になります。
まず、日本による国際援助総額が世界第一位になると共に、ちょうどソ連が解体されて中央アジア諸国が独立を果たした1990年代前半。
ECAFEから管轄が変わったUNESCAPに対して日本が多国間援助を行います。
そして、その資金でアジアハイウェイの計画見直しが行われ、約4千kmの延長が行われました。
さらに、2000年代に入ってUNESCAPがさらなる路線変更をして、2003年に日本も加わりつつ、現在の距離に至ったとか。
日本の計画見直しで約4千kmしか変更されなかったのに対して、約7万2千kmの見直しがあったこの2回目の路線変更。
果たしてそこで何が起きたのか、後で調べてみたいと思います。
こうしてみると、アジアハイウェイの整備過程も割と時代背景に基づく雰囲気があります。やはり時代の潮流は一帯一路に動きつつあることもあってか、ネットにある情報量はやや乏しいですが、明日以降も可能な限り詮索していこうと思います。